Tuesday, April 03, 2007

ハンス・コパーとバイオラ・フライ

Hans Coper, Speed Art Museum

Speed Art Museum




Viola FreyViola Frey
Viola Frey at Nancy Hoffman Gallery, New York


ハンス・コパーの作品が一点、スピードミュージアムの常設展にあった。
ヨーロッパ陶磁器のコレクションの中に。学芸の方に聞くと
ルーシー・リーも一点、展示はしていないがコレクションにあるという。

陶器に関して言えばほとんどがヨーロッパとアメリカのものだ。
バイオラ・フライのカラフルな女性が横たわっている。それをみて
どう思う?と一緒にいた西海岸の大学教授に聞かれる。

好き嫌いは別としてインパクトがある、と答えると
「でも、だから?大きければインパクトはある。でもこれだけ巨大な
人物像を作るには理由がなければいけないでしょう?
理由は何だろう。何も感じられない。何故大きいの?
何故これだけのボリュームが必要なの?」

バイオラ・フライの人物像は巨大でカラフルだ。しかし何故だろう、
おおらかな感じを受けない。開放的なあっけらかんとした雰囲気を受けない。

2004年にバイオラ・フライががんで亡くなった後
ニューヨークのナンシーホフマンギャラリー
(Nancy Hoffman Gallery)で展覧会が開かれた。そこで真っ白の
男女の人物像と同じく真っ白の大きなアンフォラが巨大な森のように
展示された。

2004年の作とあったから亡くなって色を塗ることが出来なかったのか
意図して白で作ったのか(たぶん前者だと思うがタイトルに
white manとあった。誰がつけたのだろう)、わからないが、
色のない作品群にはかえって魅力を感じた。

スピード・ミュージアムでは一つの空間にハンス・コパーの作品があり
その正面にフライのカラフルウーマンが横たわるという何とも乱暴な
展示だった。正直どちらかをしまえば良いのに、と思う。

ハンス・コパーとバイオラ・フライでは全く空気が違う。というより
同じ部屋に存在すると熟慮された展示と感じられなくなってしまう。
ここではこの展示室に限らずガラスと絵画と彫刻が一緒に展示されていた。

デトロイト美術館でもこういう空間があった。もっと違和感が少なかったが。
展示の仕方がこのような方向になりつつあるのだろうか。それとも
文化の違いなのかその美術館の学芸員の好みなのだろうか。

それにしても、、、。ハンス・コパーをバイオラ・フライと一緒に
しないで欲しい。

Sunday, February 11, 2007

「わたしを離さないで」Never Let Me Go

カズオ・イシグロを読んだ。

「わたしを離さないで」Never Let Me Go 早い段階から繰り返し出てくるある言葉にとまどう。これは一体原語では 何という単語なのだろう。こんなおかしな訳語があるだろうか、、、と。

 けれどそれがまさに的確で唯一の正しい訳語であることが次第にあきらかになる。 読み進むうち、切なくて切なくて胸をしめつけられる。作者の筆は決して 感情をあらわにしない。ただ静かに物事が進んでいく。それなのに 心が激しく揺さぶられる。まだ終わらないで欲しい、とひたすら願うが 最後に向かってたんたんとつづられる。その筆のあきれるばかりの見事さ。 

 タイトルにしても、Never Leave Me(行かないで)ではない。 Never Let Me Go(私を行かせないで、離さないで)のなんという巧みさ。 その一言が小説の全篇を要約している。

 「わたしは一度だけ自分に空想を許しました。木の枝ではためいている ビニールシートと、柵という海岸線に打ち上げられているごみのことを 考えました。半ば目を閉じ、この場所こそ、子供の頃から失いつづけてきた すべてのものの打ち上げられる場所、と想像しました。

いま、そこに 立っています。待っていると、やがて地平線に小さな人の姿が現れ、 徐々に大きくなり、トミーになりました。トミーは手を振り、 わたしに呼びかけました、、、、。」

 この、あくまでも抑制のきいた語り口の持っている何という激しさ。 ここまできて、最後に涙しない人はいないだろう。 この小説を読んだ後、何でもいい、同じ作者の書いたものを読まずに いられなくなった。

かつて大きな話題を呼んだ「日の名残」(1989年) を読む。ブッカー賞を受賞した作品だ。これもまた、すばらしい作品 だった。執事の日常、失ったもの、感情を抑えた、それ故に読み 終えたあと、しっとりと心に残る主人公の来し方。 与えられた役割の中で人はどのように生きるか、をはじめて思った。

 そして与えられた役割を生きる、ということがそんなに悪いもの でもない、と。どう生きるかは自分で選び取るもの、と思いこんでいた 私にとってひどく新鮮な、驚きに満ちた発見に思える。

今まで そういう見方をしたことがなかったな、と思う。 改めて思う。”Never Let Me Go”の大きな意味を。行かせないで、 離さないで、しっかりとつかんでいて。抱きしめていて。 私をここに留めておいて。 存在自体のありようを。ありかたの意味を、思う。

Tuesday, January 23, 2007

Glitter and Doomメトロポリタン美術館

                catalogue of the exhibition "Glitter and Doom"                 Portrait of the Dancer Anita Berber, 1925                   from the catalogue of the exhibition ニューヨークのメトロポリタン美術館で開かれているGlitter and Doomを 見た。タイトルは栄光と破滅とでもいうニュアンスだろうか。 1920年代からのドイツのポートレートばかりを集めた展覧会で非常に ショッキングな特異な時代を浮き彫りにしている。正確には1919-1933年の ワイマール共和国時代のポートレートということになる。 

 この時代、フルトベングラーのベルリンフィルをあげるまでもなく文化や 科学面で多くの業績をみた。中でも表現主義、新即物主義ともいわれる Otto Dixの作品(上の絵)は誇張された年齢を刻む娼婦のポートレートで グロテスクを超えてやるせない暖かさを感じてしまう。

なんだか ビリーホリデイの声が聞こえてくるような。 愛知県美術館にディックスの作品が多く所蔵されている。

再びグエン・ハンセン・ピゴット



at the Garth Clark Gallery, N.Y.


ニューヨークのセントラルパークにほど近いところに陶芸では一番
(ということは世界の陶芸界で一番という意味になるが)名の知られた
ギャラリーがある。 ガース・クラーク氏が経営するガース・クラーク
ギャラリー
(Garth Clark Gallery)だ。

一月の半ば過ぎ、たまたまそこを訪れたらグエン・ハンセン・ピゴットの
展覧会をしていた。淡い色合いと作品をグループで展示するという
ピゴット特有の魅力ある展示だが、入ってすぐのコーナーに
彼女にはめずらしく幾分濃いブルーの器があるシリーズ(上の写真)があった。

ピゴットは意図して歴史や特定の文化を彷彿させるような釉薬や形を
排除している。だから雰囲気は似ていても青磁釉は使わないし、また
高台も作らない。実際に淡い色調の釉薬を使ってはいるが、受ける印象は
まるで無色透明の、透き通るような磁器だ。

ピゴットはオーストラリアの作家だが、長くロンドンやパリで過ごしている。
静寂な佇まいがルーシー・リーの作品を思わせる、と感じていたら資料を
読むと実際にセント・アイヴスでバーナード・リーチの指導を受け、後に
ルーシー・リーが教えていたキャンバーウェルでクラスをとっている。
リーチの影響を色濃く現す初期の作品からその後ルーシー・リーを思わせる
薄い器に変化していく過程がはっきりと見て取れておもしろい。

ギャラリーの壁に、今スミソニアンでもピゴットの作品展が開かれている
とあった。連絡をとってみるとスミソニアンで開催されているのは
スミソニアンの所蔵品であるアジアの古陶器をピゴットが配置インストールした
興味深い展覧会のようだ。彼女自身の作品展はワシントンのオーストラリア
大使館で展示されていると案内にでていたがHPには記載がなかった。

Wednesday, January 10, 2007

Camille Claudel & Rodin - Fateful Encounter


2006年2月

カミーユ・クローデルとロダン

カナダのケベック州からデトロイトに巡回した「カミーユ・クローデルと
ロダン展」にやっと間に合った。なかなか時間がとれないでいたが、思い切って
デトロイトに飛ぶ。

スーパーボールと重なってホテルがとれず、対岸のカナダ、
ウィンザーに泊まることにした。2日間デトロイトの美術館まで往復し、
そのたびにパスポートチェックがあるので少々不便だが、トンネルで国境を渡る
バスもありデトロイト側でタクシーに乗ればよい。

デトロイト美術館は65,000点を所蔵すると言われる全米屈指の美術館だが
この展覧会はその特別企画室が入場制限になる人気の企画だ。2時間後の
入場券を購入し、ブラブラと常設展を見る。

二人のアーティストの出会いと別れ。共に制作を行った10年間の作品
別れた後の作品、また二人の拮抗し合うアイディアと技術を存分に堪能できた
展覧会だった。


130余点の作品と50点にのぼる手紙や図書類がほぼ年代を追って展示され、
どの作品がどのように生まれ、二人の関係とともにどのように変化をとげたか
またお互いの作品がどのように影響を与え合ったかが非常にわかりやすい展示だ。

それを助けたのはすべての観客に入り口で渡されるオーディオである。
作品の番号を入力するとその作品とそれに連なる展示作品の説明が非常に
わかりやすく解説される。例えば一つの作品の説明に終わらず、
「この作品の先にある同じ主題のブロンズはこれが作られた6年後に制作され
ました。ブロンズでは膝まづく女性の手は男性の手にもはやふれていません。
クローデルが、ロダンと結婚の望みがないと知った後の作品です」という具合に。

展示も解説も非常に流れがスムーズで、観客はクローデルとロダンという二人の
大きな物語をたどる旅をしているようだ。物語性の強い作品群に圧倒される。
けれど、驚きは最後の部屋の何気ない写真で新たなものになる。

殺風景な建物の前に立つ年老いた女性が笑みを浮かべている。健康的な
微笑みではない。明るい笑顔ではない。疲れた、仕方なく、とまどって
微笑んでいるような。それが精神病患者保護施設での晩年のカミーユだ。
かつての繊細で研ぎ澄まされた鋭敏な少女の面影は全くない。

隣に同じく晩年のロダンの写真がある。隣に立つのはロダンが一時期を
のぞいて終生連れ添った老妻の姿だ。



Saturday, December 23, 2006

Virgin Atlanticのショーファーサービス


利用者の満足度でいつも上位に入るバージンアトランティック航空に乗った。
マイレッジの奴隷なので通常はヨーロッパに行くときもKLMでアムステルダム経由
なのだが今回は急いでいることもあって成田からロンドン直行の
バージンエアを予約。一度使ってみたいと思っていたショーファーサービスを
使うことができるというのでさっそく試すことにした。
ディスカウントのビジネスクラスだ。

行きは迎えの車が約束の時間5分前には家の前に来て待っていてくれる。
成田まで都内からほぼ一時間半。快適なドライブだ。新聞まで用意してある。
第二ターミナルのバージンカウンター前で降ろしてくれる。
ロンドンに着いてからホテルまでもサービスを受けられるのだが知人が
来てくれることになっていたので残念に思いながらも断る。

帰りホテルから空港へもショーファーサービスを使える。私はぜひ
オートバイでのショーファーサービスを利用したいと思っていた。
オートバイでの迎えは現地で予約してください、と言われ
ロンドンに着いてさっそくバージンエアーに電話する。ただ、荷物を
どうやって運ぶのかは心配だった。いとも簡単に、オートバイで○○日、○時に
ホテルに迎えを行かせます、というのだが、あまり何度もオートバイで荷物を
確実に運べるのかと念を押したので、直接ドライバーに聞いてみて、と言われる。

帰国前日にドライバーに連絡する。荷物は機内用のキャリーオンだけれど、
その他に本をどっさり買ったのでみかん箱ほどの量がある。キャリーオンも
小さいほうではない、どうやって積むのか、と聞く。
厚みもあるし、長さもあるし、それ以外に本がダンボール一杯ある、
ショルダーバッグもある、というが、あ、それくらいなら大丈夫、という。
まあ、もしだめならホテルから送ればいい、オートバイのショーファー
サービスを受けたいのだし。
オートバイの種類を聞くと、スズキの1200。赤いオートバイだよ、
とのこと。ホテルへ着いたらフロントから電話するので部屋で待っていて
良い、と言われる。

帰国当日、時間ぴったりに電話が来た。本を入れた箱にキャリーオン、
ショルダーバッグをもってフロントに行く。黒い皮のつなぎを着てピアスをした、
レーサーのようなお兄さんだった。やっぱり本は無理だろう、とホテルの
コンシェルジュに発送の依頼をしていると、持ってきてみて、大丈夫だから、
とドライバーに言われる。

ホテルの玄関を出ると、赤い大きなオートバイが待っていた。コンシェルジュも
ドアマンもそれを全部積むのか、と好奇心いっぱいでドアから出てくる。

まず後ろの私が寒くないように、と自分と同じような黒い皮のジャンパーを
コートの上から着せてくれる。オートバイに乗ったまま出国手続きをするので
パスポートをジャンパーのポケットに入れるように言われる。そして手袋をもらい、
乗っている間にドライバーと話をできるようにトランシーバを耳にかけてくれる。
それからヘルメット。完全武装した状態でオートバイの後ろに乗る。

後ろの座席の背中にキャリーオンを乗せて固定する。長さが心配だったが
全く問題ない。次に本を入れたダンボールをオートバイ左側のトランクへ。
ふたが閉まらないのを力で押し込む。次に右側のトランクにショルダーバッグを
入れる。バランスが取れないのでは?と聞くが大丈夫、との力強い返事。
ドアマンたちも感心して見ている。すべて積み込むとドアマンたちが
歓声をあげた。いざヒースロー空港へ出発。

ピアスのお兄さんは見かけだけでなく、運転技術もまったくF1レーサーだ。
オートバイは全くぶれず、非常に安定している。小型車とぶつかっても大丈夫、
と思えるほどの安心感だ。もちろんオートバイ自体が安定しているのだろう
けれど、この大きさのオートバイがこんなに安定した乗り物だったとは
知らなかった。

私を不安がらせないように、と話しかけてくれる。良く聞こえる?車を
追い越して行くけど怖かったら言って。全く心配はいらないよ。バージンエアの
ショーファーサービスをもう5年もしているし。以前はホンダの
1400に乗っててあれも良いオートバイだったけどこれにしてから3年になる。

最初は車の後ろを走っていたが、そのうちどんどん追い越してかなりの
スピードになる。沢山着ているし寒くはないし、快適なドライブだ。
30分ほどでヒースローに着く。渋滞のタクシーより断然に早い。
駐車場をぬけて、バージンエアの出国検査官のいる入り口で
私だけオートバイに乗ったまま、ドライバーが私のパスポートを
係官に差し出してそのままチェックインとなる。あとはオートバイに乗ったまま
最上階の特別入り口まで送ってくれる。何て便利、と感激する。

写真を撮らせてといったら私を写そうとする。いやオートバイと貴方を
撮りたい、といったら不思議そうな顔をした。ふつうはきっとお客が自分と
オートバイを撮って、と頼むのだろうか。彼も顔を載せたくないかもしれない
のでオートバイの写真がこれだ。

スーツを着てキャリーオンとアタッシュケースを持ったビジネスマンが
飛行機に乗り遅れないよう、オートバイでのショーファーサービスを依頼
するケースが多いのだと思う。オートバイに魅せられた体験だった。

Friday, December 15, 2006

堀江さん逮捕

過去の日記より

2006年1月23日
はらわたが煮えくり返る、というのはこのような感情をいうのだろう。
それと同時にどうすることも出来ない無力感。

堀江さんが逮捕された。パトカーがサイレンを鳴らして小菅に先導する。
誰の逮捕でサイレンなど鳴らしただろう。まさに見せしめ、いじめ
としか思えない余計な演出。たかが30才になって数年の若者に、
日本の狡猾な老人男性がよってたかって目の敵にする。まさに子供じみた
パフォーマンス。

誰か冷静に状況を見極めて、過剰な報道をいさめたり、昨日もろ手をあげて
ちやほやした政治家が今日取って返して堀江つぶしをする状況をきちんと
批判できる「大人」がいないだろうか。それも影響力のある、きちんとした
「大人」が。

堀江さんを人間的にどうこういうだけの資料は私にない。けれど彼が
してきたことの報道されている部分から判断すれば、彼が出現したこと
には大きな意味がある。彼によって社会が気づかされたこと。
マネーゲームであれ、球団であれ、慣行をおかしい、と言う人間として。

彼を生意気だ、と言う人はフジテレビの会長を含んで例外なく狡猾な、
理屈ぬきの感情人間である。小泉さんだって正義を冷静に見つめることの
出来ない癇癪もちだ。今回の検察の動きもそういった感情人間の動きに
連なる。法に触れることをしたのならそれを罰すれば良い。ただし、
法に触れるか触れないかを冷静に判断してからだ。法が正しく機能し得た
としてだが。

クリニクラウンになった娘

一枚の写真がある。長身のおだやかな顔をした年配の、といっても恐らく
50代の男性。その横にはにかむように立つ長身のほっそりした若い女性。
二人のさわやかな笑顔。暖かい雰囲気が二人を包み、お互いの心からの
信頼が伝わって来る。何故か心に残る写真。

2005年暮れにNHKの番組でクリニクラウンとして紹介された女性と
その父親の写真だ。何故このような美しい表情が可能なのだろう。父親は
がんで亡くなったという。残された娘が病院で過ごす子供達に笑顔を
見たい、とクラウンになる、という映像だった。

父親ががんで亡くなる前に撮った写真。限られた時間ということを
知ってのふたりの穏やかな表情なのだろうか。残された時間を愛おしむ心が
二人のこの寄り添いあう暖かい瞬間を記録したのだろうか、、、と思い描き、
突然いや、違う、と悟る。

病気になったことでこのすてきな雰囲気の写真が残されたのではない。
それまでの、生きて来た二人の年月がそのまま表わされているだけ。
病気になったからではなくそれまでのずっと長い間、父と娘はこのような
すばらしいきずなを保ってきたのだ。生きて来た時間、心から信頼しあう
時を過ごしてきた親子なのだ、と悟る。でなければこのような表情は
生まれない。そうやって自然に寄り添った姿が美しい。

一枚の写真がすべてを語る、そんな父と娘(もちろん写真の男性の妻であり
娘の母である女性も同じようにすてきな関係なのだろう)の心に残る
写真だった。

Wednesday, December 13, 2006

ハンス・コパーとルーシー・リー

ハンス・コパーとルーシー・リーに会いに。
某月某日

ロンドンから日帰りでアムステルダムのクリスティーズに行く。
ルーシー・リーとハンス・コパーを収集したオクトバーグコレクションが
オークションにかけられるためだ。

Easy jetという会社の安い航空券を買ったため市内から40分電車に乗り
Luton airportからの飛行機だ。朝7時にロンドンのFarringdon駅を出て
空港まで行きスキポールまで、さらにアムステルダム中央駅まで電車に乗り
そこからクリスティーズまでタクシーで。

アムステルダムのタクシーはトロリー電車や自転車、歩行者をまるで
ぬうように、というよりまるで追いかけんばかりに走っていく。
ロンドンから一緒に行った友人は、ロンドンの列車にくらべて
アムステルダムの列車が音も静かできれいでスピードがあって、と盛んに
褒めていたが、いざ路上の交通については首を振った。
何度も人や自転車を轢きそうになりそのたびに顔を見合わせた。

クリスティーズでこれはと思う作品をケースから出してもらい
窓辺で手にとってチェックする。他に日本からの女性が日本の茶陶のコレクション
を吟味している。手慣れた様子で、どこかギャラリーのバイヤーだろうか。

あまり現代陶器は慣れていないのか、ロンドンよりかなり安い見積もりだ。
コパーとリーを始め、イタリアのタイル、日本の茶陶などあらゆる種類の
陶磁器を所蔵したオクトバーグ氏とはどういった人物だったのだろうか、と
興味をそそられる。

美術館での展覧会に数多く出品してきたが、作家別やテーマ別でなく、
自分のコレクションのすべてを一同に展示したいとの希望が入れられないこと
も手放す一因と聞いた。

帰りの飛行機はオーバーブッキングのため、ボランティアで明日の便にまわって
もらえないか、と航空会社。ホテルの宿泊代と現金を渡すことで一人二人と
ボランティアが手を挙げる。しかしほとんどの人は私を含めて
明日の仕事のためか動かない。

航空会社の職員が何度もあと二人必要、あと一人、と戻ってくる。3時間も
経ってようやく最後の一人が
「いいよ、明日にまわるよ」と手を挙げると思わず残った人たちから
拍手がわいた。

ボランティアで明日の飛行機に乗ることに決めた人たちの荷物を、すでに
チェックインした大勢の荷物の中から取り出す必要があるために、
作業時間は延々と続く。
搭乗者のものと確認できない荷物があっては飛んではならないことに
なっているのだ。ようやく確認が済んでロンドンに向けて離陸したのは
夜中を過ぎていた。

ヨーロッパの国々は国というより、日帰りで都市間を移動する感覚だが、
時にこんな(安い航空運賃のためなので文句はいえない)余計な
時間を必要とする。

早稲田のモダンジャズ同好会

昔、早稲田大学のモダンジャズ同好会に属していたことがある。
私はそこの学生ではなかったが、早稲田に入学した友だちが、
モダンジャズの好きな子がいる、
というメモを部室に残したら、ぜひ遊びにいらっしゃい
との連絡をいただいたのだ。

参加してびっくりした。
ブラインドテストといってレコードを数秒かける。
そのイントロ、最初の音を聞いて、誰がいつどこで演奏したものか
その時の演奏はトランペットは誰、ピアノは誰、レコード会社は、
などを瞬時に当てる、というゲームをする。

好き勝手にジャズ喫茶でとろとろと聞いていた私とは
まるで別世界だ。でも、その
「何となく集う」「強制も束縛もない」「いてもいなくてもいい」
という雰囲気が好きで、グループの旅行にも会合にも参加
させてもらった。

色んな遊びをした。
例えばあるプレイヤーの音を色にすると何色か。
大河内君という貴族のような名前と風貌の人が
私も好きだったマイルス・デイヴィスを
「マイルスのトランペットは黄緑」と言った。私は
音を色に例えて考えたことがなかったので、心底感心して
しまった。まさにマイルスの、崖ップチを歩いているような
緊張感溢れる音色が、黄緑、という一言に要約される
気がした。

コンパで女の人が酔っぱらったのを初めて見た。
先輩が交代でおぶって、みんなでぞろぞろと
家まで送って行った。

水が50cmくらいしかないプールに頭から飛び込んで病院に
かつぎ込まれた仲間の見舞いに登戸の方の病院まで行った。
幸い大事には至らなかったようだが。

小西さんといったか、少し猫背の長身の先輩が、どこか
放送局かテレビ局に就職が決まった、というので京王沿線
の彼の家までみんなでお祝いに行った。

スキーのバス旅行にも連れて行ってもらった。
要するに仲良しサークルのようなもの、と言ったら怒られる
だろうか。肝心のモダンジャズは前述のブラインドテスト
以外あまり記憶がない。みんなで聞いてもひとりで聞いても
要するに、モダンジャズはモダンジャズ。マイルス・デイヴィス
のトランペットもコルトレーンのサックスも聞いていれば
自分しかいなくなる。

Sunday, November 26, 2006

元ロシアKGBリトビネンコ氏の死

体内から放射性物質が検出され重体だったロシアの元KGB情報将校
リトビネンコ氏が亡くなった。プーチン大統領への遺書
「1人の口を封じる事ができても他の大勢の人が後に続くだろう」
という遺書を口述で残したと言われる。

この事件が公になったときすぐ、ある光景が蘇った。

プーチンが大統領になって間もない頃、ある式典で中年の女性が大統領に
何か叫びながら駆け寄ろうとした。「私の息子を返せ」と叫んだと読んだ
ように思う。その瞬間女性の背後から男性が近付き
一瞬にして女性はくず折れた。男性が手に持つ注射器を女性の首に
打ったことがスローモーションの映像で記録されていた。

精神安定剤か、と報じる新聞もあったが、あの女性はその後どうなった
のだろう。この身も竦むようなおぞましい出来事が何故かマスコミでは
すぐ忘れ去られてしまった。というよりあえて追求しなかったと
言えるかもしれない。スタートからこのような政権だったのだから
どんな事でも起こりうるだろう。

逆らう者に対して平然と行われる処罰、制裁。そのような事態を予期して
注射器をもった警備が配置されていた、という事実。
しかも力のない女性が叫んだだけで。

ソ連が1991年崩壊する以前、アメリカの大学に招待されて留学していた
ソ連の教授が、
「私たち国民が密かに期待している人物がいるの。ロシア共和国の
エリツィンよ。彼ならきっと自由なロシアを作ってくれると私たちは
信じているのです」と密やかに誇らしげに語ったのを思い出す。

そのエリツィンはロシア連邦の初代大統領になったが赤ら顔の酔っぱらい
とも心臓病ともいわれ8年後で政治の舞台から消えた。そのエリツィンが
後継者に指名したのがプーチンだ。体質は同じだったということだろうか。

Wednesday, November 22, 2006

Gwyn Hanssen Pigott グエン・ハンセン・ピゴット



(写真はCeramics Art and Perceptionの裏表紙から)

オーストラリアにGwyn Hanssen Pigott グエン・ハンセン・ピゴット
という陶の作家がいる。

ヨーロッパはもちろん、日本でもかなり知られた作家だ。
マイケル・カーデュー(Michael Cardew)や バーナード・リーチ
( Bernard Leach)に学び長い間イギリス、ヨーロッパで仕事をしてきた。
今年で71才になる。「立体の静物画」とよばれる淡い色合いの
器シリーズは薪窯で焼成されまるでモランディの絵のように並べられる。

ミュンヘンにあるb15というギャラリーのオーナーに会ったとき、
ハンセン・ピゴットの作品が話題になり興味深い話を聞いた。

ある時日本からハンセン・ピゴットの作品を買いたいという連絡があった。
メールのやりとりだけでその人はハンセン・ピゴットの作品を
シリーズでまとめて購入した。

何週間か経って、届いたという知らせと共に、
「ピゴットの作品を部屋に並べました。2時間もただそれを見て泣きました」
と書かれていたという。
そして、その人は日本のお医者さん、男の人よ、と。

日本の男性で、ハンセン・ピゴットの作品に涙する感性の持ち主が
いるというのは新鮮な驚きだった。
「音楽は人を泣かせることができる。美術は出来ないでしょう」と
言った人がいる。けれど絵画や立体をみて思いが溢れることはもちろん
あると思う。ただ、それを素直に口にできる日本男性は少ないと思う。

もちろん会ったこともない遠い国の人だから書いたのかも知れない。
そしてそんなことは人に知られたくないことかもしれない。でも
ギャラリーにとってそういうフィードバックがあることはどんなに
うれしいことだろう。そのメールに感動したから私にもその話を
してくれたのだろう。そのお医者さんはどういう人だろう、
と思わせるいい話だ。

ハンセン・ピゴットの作品は磁器なのに暖かく、静寂で優しい。
彼女の作品に魅せられる人が確かに日本でも増えている。

スキポール空港で

アムステルダムのスキポール空港でロンドン行きの飛行機を
待っていた時のこと。

ふと気がつくと反対側のロビーのガラス越しに人が倒れている。
あれ、と思ったらガードマンがそばに行き、倒れている人の
様子をかがみ込んでみている。するとあとからもうひとり。
その人は倒れている男性を転がすかのように足をかけた。

私は自分がそこに倒れて足蹴にされている姿を想像してしまう。
思わずガラススクリーンの反対側ロビーに廻り、デスクに乗り出して
大声で叫んだ。
「Call the ambulance!」
覗き込んだり足蹴にしたりしてる場合じゃないだろ、と。
けんか腰の私の声に、ガードマンは「今呼んだ所ですよ」と言い、
おもむろにゴムの手袋をはめてから倒れた人の身体をゆすった。

様子をみたそのガードマンは、立ち上がり私に向かって意外な一言。
「酔っ払いです。こいつは先月もこのゲートで倒れてたんだ」
え?酔っぱらい?きちんとスーツを着て、アタッシュケースを持ち、
国際線のロビーで?

お酒の匂いがするという。ゲートは閉じられていて私のところまで
匂いはわからない。そうなんだ、、、。私は病気で倒れたのだと思い、
早く救急車を、と気が気でなかった。
でも本当に酔っぱらって寝ているのだとしたら、また先月も
同じことがあったとしたら、、、。
どんな仕事をしてどこへ行くのか、空港で意識もなく倒れてしまうほど
どこで一体飲んだのだろう?

急ぐ風でもなく上から見下ろしたり足蹴にしたことに対する憤りは
あったが、見知らぬ倒れている人間にゴム手袋をはめてから
触れる、ということは考えてみれば当然のことなのかもしれない。

倒れている人の床はしみが出来ていたから失禁もしていただろう。
酔っぱらいであれ病人であれ、国際線(といってもヨーロッパでは
電車の乗り換えのようなものか)のロビーでどこから来てどこへ
行く人かわからない、伝染性の病気にかかっているかもしれない、
そんな人に、ただかけよって身体を起こそうとするには注意が必要
なのだ、と複雑な思いだった。

Monday, November 20, 2006

東京ヒルトンとドトールコーヒー

東京ヒルトンの2階にある「武蔵野」で食事をする。以前昼間は
よく行ったが夜は初めてだ。鉄板焼きのカウンターにすわり、シェフの
手さばきを見ながらメニューを開く。つれはサーロインのコース、
私は鱸の鉄板焼き。キノコ類の付け合わせでレモンバターをからめて
かりかりになるくらい焼いてもらう。

おいしいがご飯や赤だし、漬け物は中の下ではないか、と思うほど
出来合いの味だ。サーロインはやわらかくておいしいとのこと
だったがそれとて食材に負うところが大きいだろう。
バニラアイスが食後に出てきて会計は2万8千円。飲み物は何も
頼んでないのでかなり高い。

値段は承知で入ったのだから満足度がなくても仕方ないが、
一番驚いたのは同じ席で煙草をすわせることだ。食事の時に
隣でたばこ。これはまるで拷問だ。今時のレストランで分煙がない
どころか禁煙席もないなど、時代遅れも良いところ。

アメリカ人だったらすぐに席を立っただろう。まさか食事時に
煙草をすわせるとは思わなかった。ヒルトンはもともと高級とは
言えないとしても、あのロビーの騒がしさ、マーブルラウンジの
雑多な臭いはいよいよ3流ホテルか、と思わせる。

煙草といえばコーヒーのドトールもひどい。
コーヒーを買いに行っただけで髪や身体中に煙草の臭いが
しみ通る。煙草が吸えるということを売りにしている
今では貴重なコーヒーショップかもしれないが、それにしてもあの
空調の悪さ。というより煙草が絶対量が設備を遙かにしのぐのだろう。

煙草好きだけが行けば良いが、そこに働く人たちの健康を確実に
破壊している。従業員の職場条件をどう考えているのだろうと思う。
そこに入って1分で身体が煙草の煙に覆われ吸う息はすべて煙草の
粒子であろうに。従業員の健康は確実に蝕まれているというのに。
あるドトールコーヒーではオープンの頃オーナーらしき
人が手伝っていたが、今では店でほとんど見かけない。たまに
いると外を掃いている。もちろん中には入りたくないだろう。

Sunday, November 19, 2006

海へ続く道

小学校の頃、うちの前の南へ延びた道の先に海が見える、と思っていた。

ゆるい登り坂のずっと向こうにいつもきらきら光るものがあってそれが海だ、と。
「海」の上は青い空しかなく、うちの前の道は海へ続いているのだ、と。
トタン屋根の小屋か何かがあったのだと思うが 中学に通い始めて、
その道のずっと向こうにはどこまで行ってもただ家々が続いているだけ
と分かってからも坂道の先の光るものを見ると、ああ、海に続いている、と
思って心が弾んだ。


その名を聞き口にする時、心が激しくゆさぶられるひびきがある。
ロプ・ノール、タクラマカン砂漠、
コンロン、ゴビ、パミール高原、サハラ、ンゴロンゴロクレーター、
ロレンソ・マルケス、ティエラ・デル・フエゴ、、、
かつて行きたいと夢見て
ミシュランの地図を広げ、ルートをたどった地名だ。

小学校の頃、スエン・ヘディンやアフリカの大蛇の話を夢中になって読んだ。
中学に入ると紀伊国屋でミシュランの地図を買い
擦り切れるほど「読んだ」。サハラ砂漠のガスステーションに印をつけ、
ここでガソリンを補給してここで朝を迎え、この場所に留まって、、と。
あの頃の、夢中で鉛筆を走らせたルートのメモ、ノートの走り書き。
アジアハイウェイを通ってパミール高原、イスタンブールからさらに
フランスを抜けてアフリカに至る旅へ。

ノートに、スワヒリ語の単語を様々な本から書き留め、
アフリカに関する本をむさぼるように読んだ。
誰よりも先に(誰といって競争する相手も浮かばないのに)
私がアフリカの地を踏むのだ、と、
タクラマカン砂漠を通って、といつもいつも空想していた。


ある出来事があってもう私はアフリカやタクラマカン砂漠に行くことはない、
と思い資料を捨てた。夢は夢で終わる。あれほど長い間、
あれほど細かく、空想の世界で遊んだのだから、もういい。


けれど最近もしかすると状況はそんな捨てたもんでもないかもしれない、
と思う。点と点を結ぶ旅ではなく、今なら面の旅、「その場に留まる」旅も
できるのではないか。