Sunday, November 26, 2006

元ロシアKGBリトビネンコ氏の死

体内から放射性物質が検出され重体だったロシアの元KGB情報将校
リトビネンコ氏が亡くなった。プーチン大統領への遺書
「1人の口を封じる事ができても他の大勢の人が後に続くだろう」
という遺書を口述で残したと言われる。

この事件が公になったときすぐ、ある光景が蘇った。

プーチンが大統領になって間もない頃、ある式典で中年の女性が大統領に
何か叫びながら駆け寄ろうとした。「私の息子を返せ」と叫んだと読んだ
ように思う。その瞬間女性の背後から男性が近付き
一瞬にして女性はくず折れた。男性が手に持つ注射器を女性の首に
打ったことがスローモーションの映像で記録されていた。

精神安定剤か、と報じる新聞もあったが、あの女性はその後どうなった
のだろう。この身も竦むようなおぞましい出来事が何故かマスコミでは
すぐ忘れ去られてしまった。というよりあえて追求しなかったと
言えるかもしれない。スタートからこのような政権だったのだから
どんな事でも起こりうるだろう。

逆らう者に対して平然と行われる処罰、制裁。そのような事態を予期して
注射器をもった警備が配置されていた、という事実。
しかも力のない女性が叫んだだけで。

ソ連が1991年崩壊する以前、アメリカの大学に招待されて留学していた
ソ連の教授が、
「私たち国民が密かに期待している人物がいるの。ロシア共和国の
エリツィンよ。彼ならきっと自由なロシアを作ってくれると私たちは
信じているのです」と密やかに誇らしげに語ったのを思い出す。

そのエリツィンはロシア連邦の初代大統領になったが赤ら顔の酔っぱらい
とも心臓病ともいわれ8年後で政治の舞台から消えた。そのエリツィンが
後継者に指名したのがプーチンだ。体質は同じだったということだろうか。

Wednesday, November 22, 2006

Gwyn Hanssen Pigott グエン・ハンセン・ピゴット



(写真はCeramics Art and Perceptionの裏表紙から)

オーストラリアにGwyn Hanssen Pigott グエン・ハンセン・ピゴット
という陶の作家がいる。

ヨーロッパはもちろん、日本でもかなり知られた作家だ。
マイケル・カーデュー(Michael Cardew)や バーナード・リーチ
( Bernard Leach)に学び長い間イギリス、ヨーロッパで仕事をしてきた。
今年で71才になる。「立体の静物画」とよばれる淡い色合いの
器シリーズは薪窯で焼成されまるでモランディの絵のように並べられる。

ミュンヘンにあるb15というギャラリーのオーナーに会ったとき、
ハンセン・ピゴットの作品が話題になり興味深い話を聞いた。

ある時日本からハンセン・ピゴットの作品を買いたいという連絡があった。
メールのやりとりだけでその人はハンセン・ピゴットの作品を
シリーズでまとめて購入した。

何週間か経って、届いたという知らせと共に、
「ピゴットの作品を部屋に並べました。2時間もただそれを見て泣きました」
と書かれていたという。
そして、その人は日本のお医者さん、男の人よ、と。

日本の男性で、ハンセン・ピゴットの作品に涙する感性の持ち主が
いるというのは新鮮な驚きだった。
「音楽は人を泣かせることができる。美術は出来ないでしょう」と
言った人がいる。けれど絵画や立体をみて思いが溢れることはもちろん
あると思う。ただ、それを素直に口にできる日本男性は少ないと思う。

もちろん会ったこともない遠い国の人だから書いたのかも知れない。
そしてそんなことは人に知られたくないことかもしれない。でも
ギャラリーにとってそういうフィードバックがあることはどんなに
うれしいことだろう。そのメールに感動したから私にもその話を
してくれたのだろう。そのお医者さんはどういう人だろう、
と思わせるいい話だ。

ハンセン・ピゴットの作品は磁器なのに暖かく、静寂で優しい。
彼女の作品に魅せられる人が確かに日本でも増えている。

スキポール空港で

アムステルダムのスキポール空港でロンドン行きの飛行機を
待っていた時のこと。

ふと気がつくと反対側のロビーのガラス越しに人が倒れている。
あれ、と思ったらガードマンがそばに行き、倒れている人の
様子をかがみ込んでみている。するとあとからもうひとり。
その人は倒れている男性を転がすかのように足をかけた。

私は自分がそこに倒れて足蹴にされている姿を想像してしまう。
思わずガラススクリーンの反対側ロビーに廻り、デスクに乗り出して
大声で叫んだ。
「Call the ambulance!」
覗き込んだり足蹴にしたりしてる場合じゃないだろ、と。
けんか腰の私の声に、ガードマンは「今呼んだ所ですよ」と言い、
おもむろにゴムの手袋をはめてから倒れた人の身体をゆすった。

様子をみたそのガードマンは、立ち上がり私に向かって意外な一言。
「酔っ払いです。こいつは先月もこのゲートで倒れてたんだ」
え?酔っぱらい?きちんとスーツを着て、アタッシュケースを持ち、
国際線のロビーで?

お酒の匂いがするという。ゲートは閉じられていて私のところまで
匂いはわからない。そうなんだ、、、。私は病気で倒れたのだと思い、
早く救急車を、と気が気でなかった。
でも本当に酔っぱらって寝ているのだとしたら、また先月も
同じことがあったとしたら、、、。
どんな仕事をしてどこへ行くのか、空港で意識もなく倒れてしまうほど
どこで一体飲んだのだろう?

急ぐ風でもなく上から見下ろしたり足蹴にしたことに対する憤りは
あったが、見知らぬ倒れている人間にゴム手袋をはめてから
触れる、ということは考えてみれば当然のことなのかもしれない。

倒れている人の床はしみが出来ていたから失禁もしていただろう。
酔っぱらいであれ病人であれ、国際線(といってもヨーロッパでは
電車の乗り換えのようなものか)のロビーでどこから来てどこへ
行く人かわからない、伝染性の病気にかかっているかもしれない、
そんな人に、ただかけよって身体を起こそうとするには注意が必要
なのだ、と複雑な思いだった。

Monday, November 20, 2006

東京ヒルトンとドトールコーヒー

東京ヒルトンの2階にある「武蔵野」で食事をする。以前昼間は
よく行ったが夜は初めてだ。鉄板焼きのカウンターにすわり、シェフの
手さばきを見ながらメニューを開く。つれはサーロインのコース、
私は鱸の鉄板焼き。キノコ類の付け合わせでレモンバターをからめて
かりかりになるくらい焼いてもらう。

おいしいがご飯や赤だし、漬け物は中の下ではないか、と思うほど
出来合いの味だ。サーロインはやわらかくておいしいとのこと
だったがそれとて食材に負うところが大きいだろう。
バニラアイスが食後に出てきて会計は2万8千円。飲み物は何も
頼んでないのでかなり高い。

値段は承知で入ったのだから満足度がなくても仕方ないが、
一番驚いたのは同じ席で煙草をすわせることだ。食事の時に
隣でたばこ。これはまるで拷問だ。今時のレストランで分煙がない
どころか禁煙席もないなど、時代遅れも良いところ。

アメリカ人だったらすぐに席を立っただろう。まさか食事時に
煙草をすわせるとは思わなかった。ヒルトンはもともと高級とは
言えないとしても、あのロビーの騒がしさ、マーブルラウンジの
雑多な臭いはいよいよ3流ホテルか、と思わせる。

煙草といえばコーヒーのドトールもひどい。
コーヒーを買いに行っただけで髪や身体中に煙草の臭いが
しみ通る。煙草が吸えるということを売りにしている
今では貴重なコーヒーショップかもしれないが、それにしてもあの
空調の悪さ。というより煙草が絶対量が設備を遙かにしのぐのだろう。

煙草好きだけが行けば良いが、そこに働く人たちの健康を確実に
破壊している。従業員の職場条件をどう考えているのだろうと思う。
そこに入って1分で身体が煙草の煙に覆われ吸う息はすべて煙草の
粒子であろうに。従業員の健康は確実に蝕まれているというのに。
あるドトールコーヒーではオープンの頃オーナーらしき
人が手伝っていたが、今では店でほとんど見かけない。たまに
いると外を掃いている。もちろん中には入りたくないだろう。

Sunday, November 19, 2006

海へ続く道

小学校の頃、うちの前の南へ延びた道の先に海が見える、と思っていた。

ゆるい登り坂のずっと向こうにいつもきらきら光るものがあってそれが海だ、と。
「海」の上は青い空しかなく、うちの前の道は海へ続いているのだ、と。
トタン屋根の小屋か何かがあったのだと思うが 中学に通い始めて、
その道のずっと向こうにはどこまで行ってもただ家々が続いているだけ
と分かってからも坂道の先の光るものを見ると、ああ、海に続いている、と
思って心が弾んだ。


その名を聞き口にする時、心が激しくゆさぶられるひびきがある。
ロプ・ノール、タクラマカン砂漠、
コンロン、ゴビ、パミール高原、サハラ、ンゴロンゴロクレーター、
ロレンソ・マルケス、ティエラ・デル・フエゴ、、、
かつて行きたいと夢見て
ミシュランの地図を広げ、ルートをたどった地名だ。

小学校の頃、スエン・ヘディンやアフリカの大蛇の話を夢中になって読んだ。
中学に入ると紀伊国屋でミシュランの地図を買い
擦り切れるほど「読んだ」。サハラ砂漠のガスステーションに印をつけ、
ここでガソリンを補給してここで朝を迎え、この場所に留まって、、と。
あの頃の、夢中で鉛筆を走らせたルートのメモ、ノートの走り書き。
アジアハイウェイを通ってパミール高原、イスタンブールからさらに
フランスを抜けてアフリカに至る旅へ。

ノートに、スワヒリ語の単語を様々な本から書き留め、
アフリカに関する本をむさぼるように読んだ。
誰よりも先に(誰といって競争する相手も浮かばないのに)
私がアフリカの地を踏むのだ、と、
タクラマカン砂漠を通って、といつもいつも空想していた。


ある出来事があってもう私はアフリカやタクラマカン砂漠に行くことはない、
と思い資料を捨てた。夢は夢で終わる。あれほど長い間、
あれほど細かく、空想の世界で遊んだのだから、もういい。


けれど最近もしかすると状況はそんな捨てたもんでもないかもしれない、
と思う。点と点を結ぶ旅ではなく、今なら面の旅、「その場に留まる」旅も
できるのではないか。