ハンガリーの監督、タル・ベーラの『ニーチェの馬』を見た。
難解、または思い込み、または独りよがり。
風の吹きすさぶ道を身体の手入れもしてもらっていない馬に荷車を引かせて男がひたすら進む。荒れ狂う風の中、右手の利かない男とその娘は一日中石造りの家の中。食べ物はゆでたジャガイモだけ。
途中で嵐の中、近くの男が酒を借りにくる。一人でしゃべりまくる。お説教じみた、主張の激しい、この男の台詞はあまりにイデオロギー的、露骨に響く。
音楽がまた見る者の神経を逆撫でする。これでもかこれでもか、と襲いかかる。いやらしい。これがバッハの無伴奏だったらどんなに違った映画になる事だろう。バックに流れるバッハを想像する。すると全く異なるさらに非情な、けれど神経を逆立てない、もっと素直で深遠な世界が見えてくる。
ようするに私はこの映画が好きでない。好きではないがバッハで見たかったと思う。
「私たちはこれまで人生について語ってきました。これが、最後の言葉です。何かそれについて、本質的なことを伝えたかったのです。人は人生を生きる中で、朝起きて、食事をとり、仕事に行く。いわばルーティーンというような日常を歩むのですが、それは毎日同じではないのです。人生の中で、我々は力を失くしていき、日々が短くなっていきます。これについて、人生はどう終わるのかについて触れる映画を作りたかったのです」と監督は語っている(映画.comより)。
生きて死ぬ。その当たり前の事、それをこの映画は問いかけ続ける。人間とは何か、生きるとはどういうことか。考え続けずにはいられない。この問いが、見終わったあとの心に深く深く沈み込む。心の底に淀む。そういう意味では監督の意図が成功していると言えるのかもしれない。
これが撮影された場所はいったいどこだろう。いつもこんな風が吹き続けるのだろうか。いつか、パタゴニア平原ではいつも強風が吹き荒れると読んだことがある。この映画は南米ではあり得ず、ハンガリーかルーマニアかヨーロッパの寒村なのだろうけれど、気候風土が人間を形作って行く、という言葉を思い出した。
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