Wednesday, August 11, 2010

アレン・ギンズバーグの写真

from National Gallery of Art HP

Beat Memories:
The Photographs of Allen Ginsberg


たまたま行ったワシントンDCのナショナル・ギャラリー・
オブ・アート
のウェストビルディングでアレン・ギンズバーグの
写真展
をやっていた。

アレン・ギンズバーグはビートジェネレーションの詩人だ。

写真を撮っていたとは知らなかった、と思いながら名前に惹かれて入る。
ギンズバーグがジャック・ケロワックを撮っている。日本に来たときの
写真も多数ある。

恋人や近い友人そして自分自身を撮った個人的な写真。

写真展というより写真で表現された詩とも言えるイメージの数々。

と、ここまで書いてきてナショナル・ギャラリー・オブ・アートの
HPを探すと、同じような表現に出会ってびっくりする。

......his pictures are far more than mere historical documents.
The same ideas that inform his poetry—an intense
observation of the world......

とある。とすれば私のような感想を見る人に抱かせることを
意図した展覧会だったのだ。美術館の奥まったせまい空間
だけれど写真や資料は7〜80点あって、ビート世代を
知らなくてもなんだかとても懐かしい時代を感じさせる。

いつの時代にあっても、振り返ってかつて若かった頃の自分を
思い起こさせるような写真なのだ。1950年代から1990年代まで。

彼は

"I do my sketching and observing with the camera."

Allen Ginsberg, 1993

と言っている。

"certain moments in eternity”

を捉えようとした写真はほのかなほろ苦さと率直さと
そして何よりも物憂さとエネルギーと。

Thursday, August 05, 2010

哲学者とオオカミ

「学習能力抜群天才ラット」東海大、30年で95世代交配、と タイトルにある記事を読んだ。 「天才」は、30秒ごとにレバーを押さないと軽い電気ショックを 受ける実験で、学習能力の高かった個体同士を繰り返し、交配 してつくった、とある。 

 これを読んでマーク・ローランズの「哲学者とオオカミ」に 出ていたエピソードを思い出した。 マーク・ローランズの 「哲学者とオオカミー愛・死・幸福についてのレッスン」 は4月に発売されて6月には再版となった本だ。 売れるはずもないと思われて少部数発行したけれど 朝日新聞の書評に取り上げられて急遽日の目を見た 幸運な本だ。 

 いかに人々が(私を含めて)オオカミという動物に 魅せられるかということだろう。この著者の体験した オオカミとの暮らしはなんと貴重で輝かしくうらやましく 思えることだろう。 哲学などと言わず、単純にこの気高きオオカミ、ブレニンの 物語を語って欲しいと何度途中で願ったことだろう。哲学 はいらない、著者の考察はもういい、ブレインンは今日起きて 何をしたのか?何が起こったのか?起こらなかったのか? 誰と出会ってそれはどのような出会いでブレニンは何と 答えた(オオカミ語で)? もっとブレニンの写真を見たい、エピソードを聞きたい、 と思いながら欲求不満の残る気持ちで読み進め、そして 最後に理解した。

この著者は哲学的考察ぬきでブレニンの 物語を書くことはできなかったのだ、ということを。 別れが辛すぎて、生身のブレニンを思い出すひとつひとつの 出来事を、そのまま綴るにはブレニンを愛しすぎていたのだと。 

 この中で様々な出来事が哲学的考察として取り上げられる。 その一つに、恐ろしい拷問装置を心理学の名の下に発明した ハーバード大学のR.ソロモン、L.カミン、L.ワインの実験が 記されている。 中を仕切り板で分けた箱に犬を入れ、足に強い電気ショックを 与える。それを逃れようと犬は仕切りを飛び越えて、隣の区画に入る。 この過程が数百回も繰り返され、仕切りはだんだん高くされるが それをついに飛び越えられず犬は電流の流されている床に 落下する。

 別の実験では両方の床に電流を流す。犬はどちらの区画にジャンプ しようと電気ショックを受ける。それでもあまりに痛みが 激しいので、無駄な試みではあっても区画の一方から他方へと ジャンプし続けた。 

 そして犬たちは「先を見越したかのように鋭いきゃんきゃん声を」 出し、最後は尿と糞を垂れ流し悲鳴をあげ、ふるえ、消耗しきって 床に横たわる。これは「学習性無力感」という鬱病モデルを 構築するために考えられたという。 

 これを読みながら胸が苦しくなる。このような拷問が学問の 名の下に許される。 この実験と同じようなものが日本の大学の壁のなかで繰り返され しかもそれは「科学物質の影響調査に一役」という 高尚な学問実験として記事になるのだ。いのちの重さは、、と 思いながら、それでもこの犬でなくて良かった、と思う自分がいる。

Monday, August 02, 2010

汐留ミュージアムのハンス・コパー展

先週またハンス・コパーに会いに行った。LEDの紹介記事も新聞に あったので、もう一度作品たちの表情を見たかった。

 ハンス・コパーの作品では光と影が大きな役割をしていると思う。 同じ黒なのに光があたるとさまざまに繊細な表情を表す。影は シルエットを浮かび上がらせ、影になる黒は暖かい。そんな 表情が好きだ。

 LED照明のもとで作品は下からもほのかな光を受けて、 作品は自身の影をもたず、暖かい光に納まって見える。 この見せ方は作家の望む物だろうか、とふと思う。 光は優しく暖かくそっと作品を包む。光にくるまってなんだか 大いなる者の恩寵にいだかれているかのようだ。

 コパーの生涯を知るとき、この、外部からの暖かさは あまりピンとこない。なんだか作品がくすぐったがっているように 思えてしまう。 鋭く緊張感にあふれた研ぎ澄まされた空気のなかにおかれてこそ (それはコパーの作品が醸し出すものでもある そういった空気)作品が生き生きと語りかけてくる気がする。

 静謐な、微動だにしない、時を経た、静寂の世界からの 作品たちの言葉は光と影の中でこそ発せられ会話されるように思う。 一人よがりの感想だと自分でも思うけれど。

京都の街は好き。そこに住む人は嫌い。

イギリスの片田舎で会った人と京都の話になる。 彼女は関西出身でイギリスに20年住む。 

 京都の街は好きだけれどそこに住む人は嫌い、と私が言う。 彼女は故郷から遠いところに住みたかった、という。

 京都で懐石とうたっている小さなお店に入ったことがある。 いつも泊まるホテルの近く、四条烏丸からほど近い 割烹いしいというカウンター席の小さな店だ。 飲んべえの友人とそこで待ち合わせしていた。 お昼も食べていなかったのでこのままつきあうにはちょっと しんどい。友人が来る前にお茶漬けかなにか 少しお腹に入れておこうと思いメニューに でているご飯物について聞いた。

 奥さんらしい人がお手ふきを出してくれたところだったが ご飯は、、、と聞くなりマスター(シェフというのか?)が 急に声を荒げて 「うちはそんなんじゃないから!」 という。 
「え?そんなんじゃ、って?」 意味が分からなかった。 「うちはそういう店じゃないから。困るんだよ」 と、出て行けという仕草。 「食事じゃないんだよ、うちは」 

 待ち合わせと言い出す気力もなく追い出された。 まさに追い出された、不思議な気持ちだった。 ネットで割烹と書いてあるからには食事もできるのではないか? 飲み屋専門。食事お断り。と書くべきでは? 

 友人の携帯にいきさつを話して角の道で待つ。 「どうしたの。追い出されたの?」 何か悪いことをしたんだろうか、とショックな私。 他の店に行くことにして二人で「いしい」の前を通ってみる。 半分開けてあった入口は1/3に閉じてある。 私のような勝手のわからない一見さんが来るのを 避けるためだろう、と友人。

 「ちょっと京都で修行をすればもう京都料理、割烹、と 宣伝するんだよ、京都料理とすれば格が上がると思うんだろう。 本当の格式のある料理やはそんな待遇をしないよ」 「夫婦げんかでもして虫の居所が悪かったんじゃない?」と 慰められる。

 東京の人間は全くこだわりがないのに京都の人は 常に「東京なんか、、、だろう。京都は、、、だ」と言う。 自分たちが世界で一番だと思い、自分たちの世界で完結している。 と思っている。 世界は広いのにそれを知らない。 一生をそうやって過ごせばそれはそれで良いのかも知れないが。