Thursday, March 19, 2009

ほんの小さな悲しみ

いつもなら何でもないほんの小さな嫌なことがふたつみっつ 重なって、押さえきれない悲しみに襲われることがある。 

 いつもなら何気なくやり過ごすかすかな心の揺れなのに、 とてつもない大きな力に身動き取れない、と感じる。 くだらないほど小さな、恥ずかしいほどつまらない「嫌なこと」   

声を聞きたかった人があわただしく電話を切った   
仕事で質問したら相手が面倒くさそうに答えた   
せまい道で対向車がパッシングして通り過ぎた   
約束がキャンセルされた   
車が水たまりを跳ね上げていった    

そんなことが2度3度あって思わずどっと涙があふれる。 自分がとても惨めに感じる。相手が悪気があるわけでもなく 自分が悪いわけでもない。ただひどく自分がみじめ。 

 そんな時、一人で映画を見る。また本屋で何時間も立ち読みする。 コーヒーショップでぼんやり街を行く人を見る。 または早々と眠る。

一晩眠ると朝は元気になっている。

Saturday, March 07, 2009

ルーシー・リーについて森山明子氏エッセイ

デザインサイトのうつわ展でカタログを買った。
アポロ11号からスーパーカミオカンデからミノス文明から
殷の甲骨文字から漢字の器から琵琶湖の歌からヴィーナスから
西洋の象徴体系から能動原理から受容原理から(ところで
能動の反語は受動ではないか?)

「静かな工房で危険な旅をしていたのだ」から縄文土器から
中国夏王朝から景徳鎮、
ネイティブ・アメリカンの口承詩から「瓶は智慧ある者の
別名」(ところでこれの原典は何だろう)から、、、

盛り沢山の引用知識。圧倒され、、、、そして
空しくなってしまった。 

この人はルーシー・リーについてご存知だったのだろうか。
それとも時間がなくて書物や引用できる知識を駆使した
のだろうか。

しかも「私は男性によって創られた」を恋情と言い換えている。
これは間違いだ。
それに発音。decade はどうしたって de'keid でしょう。
ディケードとは言いません。

森山氏はデザインに関して豊富な経験と知識をお持ちの方だ。
けれどルーシー・リーについて語るにはふさわしくない。または
十分にリーを理解していない。上っ面の言葉、知識の羅列に
感じられてしまう。

私の独断と偏見によれば
ルーシー・リーとその作品はこのエッセイの対極に在る。

sympathy を装って書かれているがその実自分の書いている文に
対するsympathy でしかない。

何をこの人は言いたかったのだろう。