Friday, August 21, 2009

ノースウェスト、デルタ航空、あれこれ

ノースウェストとデルタ航空が合併してから初めて乗った。 今までノースウェストに乗っていたが、デルタと 合併してからはノースウェストの 名前がいろんなところから消えた。デルタの方が力関係が 大きいと言うことだろう。

 成田の航空会社のラウンジもデルタにとってかわり、置いてある スナックは少し質が良くなって種類も増えた。エアフランスの ラウンジよりほんの少し良いとも言えるかもしれない。 飛行機はビジネス席のブランケットがクイルトに替わった。 ごわごわしていてがさが増え色も濃いベージュで嫌だと 思ったがかなり大きいので身体がすっぽりはいる。

 また今までサービスのスリッパや洗面具は席に着いてから 配られたが今では先に席に置いてある。これはこの方が 効率も良い。デルタになったのだからNWのクルーはさぞ 緊張しているかと思いきや、おしゃべりくせは変わらず サービスの悪さも変わらず。 

 機内の食事はサラダ前菜は NW時代のほうが良かった。メインディッシュはデルタの 方が良い。デザートは変わらず。機内はきれいになった。 というよりNW時代はひどいきたなさだった。ビジネスでさえ 床がよごれトイレのよごれも放置されていた。少し機内の 状況に気を配るようにはなったのだろうか。

 NW/デルタで良いのは離着陸時の機内の状況に大らかなことだ。 全日空、ヴァージンアトランティックは規則とばかりに ブランケットも取り上げるし(どんなに寒くても)、どんな 小さなバッグも新聞もなにもかも片付けてしまう。

クルーは はやばやと着席して誰も動いてはならぬ、という具合に ただひたすら着陸を待つ。いやでも緊張感を高める儀式みたいだ。 NWはクルーは直前まで歩き回る。ショルダーバックくらいは 足下にころがっていても何も言わない。すっぽりとブランケットに くるまっていられる。

KLMもNW系だ。杓子定規で応用・機転が 利かないよりおおざっぱな方が私には合っている。 食事に関してはどの航空会社でも全く食をそそらない。 KLMの時は食事がホテルオークラだというので少し期待けれど 全くの期待はずれだった。

でもどこよりも評判を気にしているようで しばしばビジネスクラスに会社の「偉い人」が乗ってきて ひとりひとりに自己紹介し、機内のサービスはOKか、何か 気になることはあるか、これからもよろしく、と挨拶していく。

 結局どの航空会社でも食事には全く期待できないと いうことを飛行機にのるたびに実感する。 空港でピザを一切れ買って乗る方がよっぽどおいしい。 食べるものにもサービスにも期待できないとするとひたすら 眠る努力をするしかない、

とすると欧州路線なら ヴァージンアトランティックのビジネスが一番良い。 かなり幅はせまいけれど全く平らのベッドで羽布団だ。 しかも運が良ければ肩マッサージの順番がまわってくる。 それにショーファーサービス(送り迎え)が付く。 とはいえ10数時間もブロイラーのようにベルトして 食べるだけの状況は気持ちの良いものではない。 できることなら飛行機に乗らないのが一番良い。 というのが結論です。

ハンス・コパー展-2

ハンス・コパー展がやってくる!兵庫陶芸美術館で9月から。 今でこそちらほらコパーの記事がでてくるがほんの2,3年前までは ほとんど情報はなく名前を知っている人も少なかった。

 私はルーシー・リーが好きでそこから必然的にコパーを知った。 何だろう何だろうこの形は、と調べる内にどんどん 好きになった。心を射るというか見つめずにはいられない形。

 ルーシー・リーは静寂の美という展覧会が生誕100年にあった。 トロントのがーディナー美術館でも100年展があった。 もちろん1989年三宅一生氏のルーシー・リー展がある。 三宅氏は今年も21_21でルーシー・リーとジェニファー・リー のうつわ展を開催した。来年は国立新美術館でルーシー・リー展 が開かれる。

まるで大きな波のように次々と開かれる ルーシー・リー展。それだけ人気が大きいのだろう。 それにしても同展は「没後初の本格的回顧展」とうたっている。 過去の展覧会を無視しているのは意図的?かしら。 まあ、美術館同士の面目みたいなものがあるのかもしれない。 ブームのようにとりあげられるルーシー・リーに対して ハンス・コパーはまだまだ日本では知られていない。 けれど陶芸界はいうに及ばずもっと広い美術界に大きなショックを 与えるのはハンス・コパーだろうと思う。

その作品の独創性 ピュアな形状。ストイックな生き方。他に類を知らないほど 特異な作家と思う。一番好きなのはキクラデスと呼ばれる 緊張感溢れる作品。あくまで静謐にそこに在る。 ニューヨークの知人とコパー作品の魅力を語り出したら二人とも とまらなくなった。

彼を表して最も適切な言葉、と 一致したのは purity という言葉だった。生き方も作品も。 今の多くの作家達のこれ見よがしな作品はコパーの作品の 前では色あせて見えてしまう。

こういったら身も蓋もないかも しれない。でも出ては消える作品の山の中で、やはり コパーは確実に深さが違うと思う。好き嫌いのレベルを超えて。